こんにちわ! 悠久です。
今日は俺の心の中を開けて見せましょう!
でも、決して自慢できる心じゃない
むしろ、隠しておきたい心
じゃ~なぜ見せるかって
見せないと本当の自分を
さらけ出せないから
ここで打ち明ける!
第二のプロフィールなのです。
大人になって
目覚めてしまいました。
「あれ~っ、俺ってなんて弱い」
情けないけれど自覚してしまった。
どこから、こんなに弱かった?
それは振り返ってみると
小さい頃から、既に
「気が弱かった俺なんです。」
なぜ、そう断定できるかと言えば
「争いごとには係わりたくなかった。」
自分自身が負けるのが見え見えだったからです。
「争いたくない、何でも穏便にすましたい」
何事にも消極的で、
不器用な人たちのためにも、
「俺がなぜそんな風になったか?」を
自分自身で見つけてみたい。
なぜ、その弱い自分を見つける必要があるのか?
それは、その「弱い自分」をどうしたら克服できるか?
今60歳を過ぎた時点でも考えているからです。
それはひとつには、俺自身のためでもある。
もうひとつは、これで悩んでいる同年代への
助言でもあります。
その元凶を探るためにも、タイムマシンに乗って
過去に遡ってみましょう。
思い起こせば、
その「気が弱い自分自身を意識しだしたのは、
どこから始まってるかなぁ~」
と原点を考えると、
そう言えば、すでに小学生の頃に
思い当たる節があります。
小学校の低学年の頃、
すでにいじめられた経験がある。
近所に住む金持ちのガキ大将にいじめられた。
ここから始まっている?
そいつは、
身体も俺より大きい
腕力もあるし、だいいち顔が怖い
もうひとつは、
「言い負けた、口でも勝てんかった。」
でも、いっしょに遊んだ。
なぜ遊んだかって言えば、
「友達がそいつしかいなかったからや」
親も、うすうす気づいていただろうな?
だから、親の前では演技してる
「仲良く見せて、いじめに耐えた。」
いじめを受けていない人はきっと言う。
「そんなやつと遊ばなければいい?」
「なんでそこまでする?
別の友達作ればいい?」
「多分、気の合ったところもあった。」からや
もうひとつは、そいつは「親分肌や」
そいつと遊ぶ方が守られる?
「俺の弱さがそこにもある。」
そいつにしても「いじめてる」って
気がついていないし、
その「いじめが」身に沁みついている。
こちらも、「あれっ」と思っているものの
馴れ合いになってしまっている。
そこから始まっている「俺の気弱人生」が!
もうひとつ、影響を受けたことがある。
それは、おやじの存在だった。
亡くなったおやじのことを悪くは言いたくないが
ものすごく影響を受けているので
書かなければ題二のプロフィールが見えて来ない
今でも夢にまで出て来そうなくらいや!
皆さんのお父さんはお元気ですか?
私の父親は11年前に亡くなりました。
生きている最後の最後まで「怒鳴られた」記憶しか残っていません。
おやじは公務員でした。
地方公務員です。「消防士でした。」
厳格な父親でした。
自分の価値観でしか、判断出来ないがんこおやじ。
小さい頃から机の整理整頓から時間の厳守まで厳しかった。
その「おやじ」の怒りが「私の性格」を作ったといっても過言じゃない。
その性格は「恐れ」である。
ちょっと何かするにしても「おやじに怒鳴られるじゃないか?」と
常にビクビクしていた。
それが日常的になり、そして学校生活、そして会社内でも
常にビクビクしていた気がします。
大人になっても「おやじみたい」にはなりたくない一心で、
「人に甘く、そして、自分にも甘かった。」
「おやじ」と常に反対の立場にいたかったかなぁ?
だから、
小学校時代にも「おやじ」と連れだって歩くのがいやで、
距離を置いて歩いていた。
今にして思い返すと
それをされた「おやじ」もきっと寂しかったに違いない。
でも
そんな情景とは関係なく、「怒鳴られた」
理由がわからないときもあるが、
敢えて、怖かったので理由は聞いていない。
そのため
無性に腹が立った。
「おやじ」とまともに話したことがなかった。
ただ、一度「おやじ」と「おふくろ」の夫婦喧嘩を聞いていて、
無性に腹が立って「おやじ」を思い切りけなした。
そのあともボロクソにまくし立てた。
ところが、
その時「おやじ」は黙って聞いていた。
その悲しげな表情だけが、亡くなったあとも胸に残っている。
自分が「おやじ」の年代になってからも
「おやじ」の気持ちはわからないままだ。
でもあの悲しげな表情が、何を言いたかったのかわからないままや。
それから数年経っておぼろげながら見えてきたものがある。
それは、おやじと呼ばれる同じ年代になり、
子を持ち、その子と対峙しているとふと、
あのときのおやじの気持ちがなんとなくわかった気がする
俺が判断するところ
おやじはこう思って黙って聞いていた。
「これは俺の性分や、ちょっとした気に入らないことでも
怒らずにはいられない。
お前にも同じ血の性分が流れてる。
いずれわかる。」
実際に60才を超えてがんこになり、
気に入らないことは小さいことでも
イライラする性分がある。
これはオヤジからの血筋でもある。
今まで「おやじのようにはなりたくない」
と考えていたが、オヤジと同じ血が流れる性分だけは
どうしようもなく引き継いでいた。
悲しい宿命かもしれない
そして、「気弱でありながら、身内にはきつくあたる
子供にはガミガミ叱りたくはないが、
この性分は俺が墓場まで連れて行く。」
これがおやじの性分を引き継いでいる俺の性分でもある。
更に、「弟の死」が気弱さ、そしておふくろを守ってやらなければ、
という気持ちの焦りがより慎重な性格へ導いて行ったような気がする。
人の死は突然やってくる。
誰も予期していないときにやってくる。
なぜ、人は死ぬのだろう?
魂が存在するならば、「もっと寄り添ってあげたかった。」
そう謝りたかった。
弟とは6歳違いの同じ男の子どうし。
でも、性格も違えば、体格も全く違う
同じ、母親の元で育ってなぜこうも違うのか?
同じ、兄弟でも、家の中での対応の違いは大きかった。
まず、オヤジの対応が長男の俺と次男である弟では全く違った。
かわいそうだが、オヤジは俺に対するのと弟に対するのとでは
倍も厳しかった。
ちょっとしたことでも怒った。
普段から怒りっぽいオヤジだったので、
俺が感じていた怒りが弟の場合は倍以上も違っただろう。
なぜ、そうなんだろう?
これは俺には分かる、感じとっていた。
オヤジは弟に対して「腹立たしかった。」
この一言に尽きる。
要するに
何をするにも気に食わないのである。
人間対人間で「この嫌う」となれば、
相手への怒りの許容範囲がぐっと狭くなる。
俺なら怒らずにぐっと堪えられる行動でも、
弟が同じことをやれば、すぐオヤジの怒りに変わる。
だから、弟の場合、余計にオヤジには喋らないし、
頼みもしない、それがまたオヤジの怒りに火をつける
悪循環を巻き起こす。
弟の全体的な印象は「おとなしい」
小さい頃から兄弟喧嘩はよくした
「プロレスごっこ」と称して和室の中で暴れた。
だから、ふすまや置物などは穴が空き、よく壊した。
しかし、年が上がっていくと
弟は耳が難聴のため「誰とも」喋らなくなった。
厳密に言うとおふくろだけとしか話さなかった。
小学校でも友達は出来ず、学校も楽しくなかったろうと思う。
自宅に戻ってからもモクモクと本を読んでいた。
長男である俺とも喋らず、昔のようにプロレスごっこもしない、
俺は、気になってはいた。
こんなにひとりで籠もっていては
将来、就職や結婚出来るだろうか?
その時、おふくろから聞いた話では、
「結婚せんでもええ、私が一生面倒見ていくから」
と嘆くように言ったのを覚えている。
しかし、今から思えば、「なぜもっと遊んでやらなかったんだろう」
それは、耳が遠くて少し自閉症のようなところがある弟がうとましかった。
隠しておきたい存在だった。のだろうか?
弟が亡くなったのは、俺が社会人になって
初めての会社勤めをしている真っ最中のことだった。
突然、会社に電話があり、「弟が事故!」
驚いて病院に駆けつけた。
その時は顔面を包帯で巻かれた弟が病室いた。
おふくろはしきりに弟の足首を撫ぜていた。
それしか出来なかったんだろう。
オヤジはただ呆然と立っているだけだった。
そのときのオヤジに少し俺は腹を立てていた。
弟に謝れ、今までのことを生きている間に謝れ。
先生に呼ばれておふくろと二人で先生のもとに行くと
レントゲン写真に弟の頭蓋骨があきらかに割れているのが目に止まった。
先生から説明を受ける前にすべてが飲み込めた。
弟はアルバイトで荷揚げをしており、
2階からロープに釣った荷物を上げる手伝いをしていた。
その荷物が揺れ、荷物といっしょに下に落ちたのだそうだ。
打ちどころが悪く頭から落ちた。
これ以上は言えない!
その晩までは生きていた。
俺ひとり自宅に戻った。
夜中に弟がひとりで帰ってきた。
「無言で」帰ってきた。
玄関の戸の前で入らずに立っていた。
俺もそれを見て、悟った。
部屋に戻り手を合わせた。
「弟が亡くなった」・・・何も出来なかった。
してあげられなかった。
後悔以上に情けなかった。
「にいちゃん」を許せ!
兄弟って一体何だろう?
戦国の時代から
「兄弟で骨肉の争いをすることは度々あった。」
それは権力を同じ血の中で争うものだ。
そんな血で争うものなどはない、
本当に弟を守ってやれたのか?
それは「否」だ!
オヤジもさすがにこれにはこりたらしく
その後も弟に「すまない、すまない」と言っていたと
おふくろから聞いた。
「もう、遅いわ、今さら、何もならないわ!」
おふくろがひとりになったときに思う。
昔、おふくろが言った言葉を
「結婚せんでもええ、私が一生面倒見ていくから」
もし、生きていたら、おふくろと仲良く暮らしていたかも?
あぁ~、生きていて欲しかった。
一番影響を受けたのが”おふくろ”からだった。
「母の苦労、そして助けてもらった恩」
母は長女で育った。
戦後の空襲で生き延び、
そして結婚して二人の男の子を産んだ。
ひとりは、私で、もうひとりは弟だった。
戦前、戦中、そして戦後間もなくの食料のない時代を
私と弟をりっぱに育ててくれた。
「本当におふくろには感謝しかない」
だが、その
おふくろも苦労の連続であったろう。
なぜなら、食べざかりの男の子をふたりも育て、
ふたりとも大学まで行かせてもらった。
戦前の女性は強かったと言われているが、
まさに地を行くようなもので、身体は小さく細いが
本当に強くたくましかった。
そのおふくろも
結婚したての頃は、祖母にいじめられ、
嫁・姑の関係で辛かったろう!
姑、私にとってはおばあちゃんに当たる人は気が強く、
よくおふくろを叱っているのを陰ながら聞いていた。
おやじに怒られ、そして姑に怒られ、居場所がなかったんじゃ?
でも、違いました、おふくろは二人の息子を育てることで
精一杯抵抗していました。
だから、ふたりから怒られても耐えれたろうと想像します。
でも、寝る前のふと1日を振り返ったとき
きっと寂しかったろうと思います。
ふたりの息子だけが、頼りです。
その後もおふくろはふたりの息子を守ってきました。
そのことが大きな強みだったのです。
ところが、今度は一方の息子・弟がおやじから
嫌われ、そして常に怒られるようになると
弟の方をよけいにかばうようになります。
当然、弱い方を庇ってやるしごく当然の成り行きです。
だから、弟もおふくろには話が通っていました。
おふくろも自閉的な弟を庇い、
結婚出来なかっても一生面倒を見てあげるとまで言っていました。
そんなとき、弟が亡くなった。
事故とは言え、庇う存在、それもふたりのうち半分を失くした失望感は
筆舌に値するものがあります。
そのときのおふくろは、「何もしてあげることが出来なかった。」
どうして、そんな危険なアルバイトに行かせてしまったんだろう?
と後悔の念ばかりです。
後年、ひとり残った息子に注力するようになったのは
当然と言えるでしょう。
だから、私への心配はおふくろの”想い”が詰まっており、
「二度と危険なことはさせない」となり、保護過剰になって行きます。
息子である私は、そうとは知らず、両親ともども「あぶないことはするな」
との加護に対して「うざい、うっとうしい」と反発するのでした。
でもその過剰な保護の元で形成されて言ったのが
「無茶はしない」との自戒だったのです。
この自戒が青年時代に形成されたことで、
「ビビリ」に拍車を掛けていきます。
そして、もうひとつ大きなおふくろからの教え
「過剰な気遣い」を受け継いでいました。
これは、非常に微妙な言い回しですが、
みんなが無視して通る廊下で「ちょっとした何かがある」場合
それに敏感に反応します。
それに自分の周りに「腹を立てている人がいれば」、
その人と面と向かっていなくても「過剰な気遣い」を
それに敏感に反応します。
今の流行りで「繊細さん」と呼ばれています。
私はこの「繊細さん」なのです。
間違いありません。ぴったりなのです。
だから悪いという訳ではありませんが、
いらぬ「過剰な気遣い」をし続けます。
これが結構疲れるのです。
もうひとつ大きな特徴は人の倍以上もある「敏感アンテナ」を
持って人の気持を感知し続けます。
「すごい装備持ってつやろ!」と自慢出来るほど
感度は優れています。
それに使うエネルギーが半端じゃありません。
それがHSP(Highly Sensitive Person)ハイリー・センシティブ・パーソン
HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味
まさしく私はHSP、これなのである。(別のページにて詳しく解説)
そのおふくろも、今年から老人ホームに入居した。
何かにつけ不自由ない暮らしだが、完全な自由はない。
見るところによるとそれが一つの不自由さである。
そしてコロナの影響で窓越しにしか面会出来ない。
それが、またひとつの寂しさでもある。
「すまいない、おふくろ、家で面倒見てあげれたらいいのだが」
嫁との確執もあり、それも出来ぬ!
「寂しいだろうが、辛抱してくれ!」
ただ、頭を下げるのみである。
私は25歳ぐらいまで、この三人(おやじ・弟・おふくろ)の影響
を受けて、性格が形成されています。
25歳以上からはまた別な人間との性格形成が進んでいきます。
しかし、この25歳までで私その物が出来上がったようです。
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